大阪高等裁判所 平成3年(ネ)2713号 判決 1996年10月11日
平成三年(ネ)第二八〇六号事件控訴人平成三年(ネ)第二七一三号事件被控訴人(第一審原告)
山本正治
同
山本和子
右両名訴訟代理人弁護士
小川剛
平成三年(ネ)第二八〇六号事件被控訴人平成三年(ネ)第二七一三号事件控訴人(第一審被告)
宝塚市
右代表者市長
正司泰一郎
右訴訟代理人弁護士
安藤猪平次
同
内橋一郎
右安藤訴訟復代理人弁護士
吉村弦
主文
一 原判決中第一審被告敗訴部分を取り消す。
二 第一審原告らの請求を棄却する。
三 第一審原告らの控訴を棄却する。
四 訴訟費用は、第一、二審とも、第一審原告らの負担とする。
事実
第一 申立
一 第一審原告ら
1 原判決を次のとおり変更する。
第一審被告は、各第一審原告に対し、各金三九〇五万二七五〇円及びこれに対する昭和六二年二月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 第一審被告の控訴を棄却する。
3 訴訟費用は、第一、二審とも、第一審被告の負担とする。
二 第一審被告
主文と同旨。
第二 当事者の主張
左に付加、訂正するほかは、原判決「事実」の「第二 当事者の主張」のとおりである。
1 原判決二枚目裏七行目の「している」を「しており、病院長、医師行政隆康、看護婦野村恵子らはその被用者である」と改める。
2 同三枚目表一一、一二行目の「聴取した後、」の次に「淳子がステロイドを常用している者であることに気付かないまま、」を加える。
3 同四枚目裏二行目の「求めて」の次に「、経鼻挿管、アンビューバックによる換気処置を行うなどし、」を加える。
4 同五枚目表五行目の「債務不履行責任」の次に「または、民法七一五条による使用者責任」と加える。
5 同九枚目裏三行目と四行目との間に、次のとおり加える。
「(七) 呼吸管理に関する過失
行政医師としては、淳子の症状の急激な悪化に備えて診察後速やかに気管切開や気管内挿管を準備しておくとともに、淳子が呼吸困難に陥った時点で直ちに気道を確保し(たとえ喉頭部に切開痕を残したとても)、呼吸が停止した後は従量式人工呼吸器による機械呼吸や気管支洗浄を行い、さらには全身麻酔によって筋弛緩を図るべき職務上の注意義務を負っていたものであり、このような措置を採っておれば淳子が死亡するに至ることは避けることができたはずであるのに、行政医師はこの注意義務を怠ったものである。」
6 同一二枚目裏六行目の「受けた」を「受けて帰宅した」と改め、同裏七行目冒頭から八行目末尾までを削除する。
7 同一二枚目裏一三行目から一三枚目表一行目の「実施した後、」の次に「淳子がステロイドを常用している者であることに気付かないまま、」を加え、一三枚目表四行目の「指示したこと」を「指示し、自らは処置室に同行しなかったこと」と改める。
8 同一三枚目表一〇行目の全体を次のとおり改める。
「(五) 同2(五)の事実のうち、淳子が野村看護婦の指示にしたがって本件吸入液の吸入を続け、その呼吸が一層困難となったことは認めるが、その他の事実は否認する。」
9 同一三枚目表一三行目の「処置として、」の次に「本件吸入液の吸入処置を中止したうえ」と加え、同裏二、三行目の「、気管支拡張剤であるボスミン」を削除し、同四行目の「求めて」の次に「、経鼻挿管、アンビューバックによる換気処置を行うなどし、」を加える。
10 同一四枚目裏七行目の「状態」を削除し、同一四枚目裏一、二行目の「、同医師」から三、四行目の「断定したこと」までを削除する。
11 同一五枚目表一二行目の「、ボスミン」を削除する。
12 同一五枚目表一三行目と同裏一行目との間に次のとおり加える。
「(七) 同4(七)のうち、淳子の症状の急激な悪化に備えて気管切開や気管内挿管を準備しなかったこと、淳子が呼吸困難に陥った時点で気道確保しなかったこと、呼吸が停止した後、全身麻酔をしなかったことは認めるが、その他の点は否認する(呼吸が停止し意識を失ってからは経鼻挿管により気道を確保した。)。」
13 同一六枚目表八行目冒頭から一〇行目末尾までを次のとおり改める。
「(二) 行政医師は、問診により淳子から前夜よく眠れなかったことを聞き知ったが、入室時の歩行や問診時の会話に特段の支障はなく、肺野に喘鳴を聴取したので、その症状を気管支喘息の中発作と診断した。一刻を争ってステロイドを投与しなければ直ちに死の機転を迎えるおそれがあるような状態ではなかった。」
14 同一六枚目表一三行目の「0.5」を「五」と改める。
15 同一七枚目裏三行目冒頭から一〇行目末尾までを次のとおり改める。
「(八) 右ソルコーテフの静脈注射を終えた直後あまりにも急激に心肺機能が停止したので、行政医師は他の医師等を呼ぶとともに、自ら経鼻挿管に着手した。午前一〇時五〇分ころから、駆けつけてた山崎医師らと共に、心肺停止と判断し、強心剤としてボスミンを心内注射して心臓マッサージを始め、同時に経鼻挿管(気道確保)のうえ酸素を接続したアンビューバックによる人工呼吸も開始したが、やがて喘息発作のため抹消の気管支のけいれんが高度になって換気に強い力を要するようになり、その後、各種投薬、心臓マッサージ、電気的徐調動(ガンターショック)などを試み蘇生に努めたが、容態は好転せず、午後〇時一〇分に死亡するに至った。」
16 同一八枚目表四行目の「、重積発作」を削除し、同表六行目の「学会基準によると、」を削除する。
17 同一八枚目裏一〇行目の「帰宅後」から一一行目「なかったものの」までを、次のとおり改める。
「夜間診療から帰宅後も、息遣いは普通で、咳は全然なく、特に苦痛は訴えていなかった。また、おかゆを食べたり、ベッドに戻らずにテレビを見たり本を読んだりするほど安定した状態で、すっきりしないと訴える程度のことであった。ただ」
18 同一九枚目表八行目の「状態」を削除する。
19 同一九枚目裏一〇行目の「状態」を削除し、同裏一一行目の「薬効」から二〇枚目表一行目の「ないから」までを次のとおり改める。
「薬効を試していない抗喘息薬としてはアロテックくらいしかなく、アロテックの吸入は副作用も少ないうえに即効性があり一〇分以内で効果の有無が判明し、効果があれば非常に早く症状を軽減できるし、効果がなくても治療の遅滞を招かないから、最後の手段としてはステロイドを使用するとしても、まずアロテックの吸入を試みることは妥当な措置であった。また、仮りに問診において淳子に他病院におけるステロイドの使用の有無を確かめていたとしても、正確な回答を得ることを期待するのは困難な状況であった。したがって」
20 同二〇枚目表五行目「同病院の」から八行目「いなかったから」までを次のとおり改める。
「同病院の医師から、他の医師の診察を受ける場合には副作用のある喘息薬を使っていると言うよう教示されてはいたものの、ステロイドを常用していることを明確に告げられていたわけではないし、他の医療機関での救急時にステロイド常用を告知するようにとの指導も受けていなかったから」
21 同二〇枚目裏四行目の「かかる問診は」から五、六行目の「いえないから」までを次のとおり改める。
「必要な問診のすべてを完了しなければ治療に着手してはならないというものではなく、治療行為に着手した後に適宜問診を続けることとするのも医師の裁量であるから、仮りに問診が不十分であったとしても、その裁量を逸脱してさえいなければ、直ちに違法不当ということはできない。したがって」
22 同二〇枚目裏九行目の「原則として」から二一枚目表一行目末尾までを次のとおり改める。
「副作用が非常に強く多岐にわたるから、中発作に対する一般的な治療方法はボスミン、アロテック、ネオフィリン等の抗喘息薬の投与を原則とし、ステロイドは、これを常用している場合は別として、大発作や重積発作状態への移行が危ぶまれる時にのみ投与するのが実務の治療指針とされていた。」
23 同二一枚目表三行目の「重積発作」から五行目の「あったから」までを「前記のとおり中発作であったのであって」と改める。
24 同二二枚目表二行目冒頭から四行目末尾までを次のとおり改める。
「(四) 以上のとおりであって、アロテック吸引処置を選択せず、当初からステロイドとネオフィリンの点滴を選択していたとしても、結局、淳子の死亡という結果を回避することはできなかったのであるから、アロテックを処方したためにステロイドの投与が五分ないし一〇分遅れたことと淳子が死亡したこととの間には因果関係はないというべきである。」
25 同二二枚目表六、七行目と二四枚目表一〇行目の「状態」を削除する。
26 同二四枚目表一五行目と同裏一行目との間に次のとおり加える。
「(四) 行政医師が処置室に赴いた午前一〇時四五分ころには、大発作となっていたが、まだ会話は可能であり、気道確保をしなければならない状態ではなかった。換気不能状態になる前に気道を確保する必要性はない。
(五) なお、アンビューバックによる人工呼吸中、その抵抗が強くなったのは下気道が喘息発作のため収縮していたためであり、上気道は経鼻挿管により気道確保されていたから、気管切開して上気道を確保しても下気道の改善にはならない。」
理由
一 請求原因1の事実は当事者間に争いがなく、同2のうち以下の事実も当事者間に争いがない。
1 淳子は、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから被告病院において気管支喘息発作の治療のため夜間の救急診療を受け、当直医師からボスミン皮下注射を受けて帰宅した。
2 淳子は、翌二九日午前に、原告和子に伴われて再び被告病院を訪れ診療の申込みをし、同日午前一〇時三〇分ころから、被告病院内科で行政医師の診察を受けた。
3 行政医師は、淳子に対する問診を実施した後、淳子が他の病院でステロイドを常用している者であることに気付かないまま、野村看護婦に対し、診察室の向い側の処置室において淳子に本件吸入液(交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液0.3ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットル)の吸入処置を実施するよう指示したが、自らは処置室に同行しなかった。
4 そこで淳子は、処置室において野村看護婦の準備と指示にしたがい吸入装置を用いて本件吸入液の吸入を開始した。
5 淳子は、野村看護婦の指示にしたがって本件吸入液の吸入を続け、その呼吸が一層困難となった。
6 野村看護婦から右状況の報告を受けた行政医師は、処置室に赴き、呼吸困難に陥って苦しんでいる淳子に対する処置として、本件吸入液の吸入処置を中止したうえ、自ら点滴の装置を装着し、気管支拡張剤ネオフィリン及び副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフを投与し、さらに他の医師の応援を求めて、経鼻挿管、アンビューバックによる換気処置を行うなどし、淳子の蘇生に努めた。しかし、淳子は、同日正午ころ気管支喘息発作の重篤化により窒息死するに至った。
二 本件医療事故の経過(請求原因2のうち当事者間に争いのある事実を含む。)は、左に付加、訂正するほかは、原判決「理由」の「第二 本件医療事故の経過」のとおりである。
1 同二七枚目裏七行目の「し、使用患者」から九行目の「多い」までを削除する。
2 同二七枚目裏一〇行目の「同女に対し、」の次に、「ベロテックは余り副作用のない軽いステロイドであるが、できるだけ使用しないよう告げ、また、」と加える。
3 同二九枚目表六行目の「食べたが」を「食べ、息遣いは普通で、咳はなく、特に苦痛を訴えるようなこともなかったが」と改める。
4 同二九枚目裏二行目の「眠くなり」から七行目の「原告和子は」までを「眠くなったので先に就寝し」と改める。
5 同三一枚目裏四行目の「診断し、」の次に「淳子が他の病院でステロイドを常用している者であることに気付かないまま、」を加え、同六行目の「0.5」を「五」と改める。
6 同三二枚目表一三行目から同裏一行目の「アロテックD液五ミリリットル」を「ネブライザーD液五ミリリットルの追加」と改める。
7 同三四枚目表一一行目の「進行し」を「急激に進行し」と改める。
8 同三四枚目裏二行目の「山崎要医師」から同四行目「かけつけた時」までを「野村看護婦に山崎要医師(当時、被告病院の内科主任医長であった。)を呼ぶように指示した。野村看護婦はその場で山崎医師の名を呼んだが、山崎医師と杉山看護婦が直ぐに同処置室に駆けつけた時には」と改める。
9 同三五枚目表一一行目冒頭から同裏一三行目末尾までを削除する。
三 請求原因3の事実中、淳子が、昭和六一年五月二八日、被告との間で医療契約を締結し、被告は、右医療契約に基づき、淳子に対して病的症状の原因解明及び病状に適した的確な治療行為をなすべき債務を負っていたこと、行政医師が、被告病院に内科医として勤務する被告の履行補助者であること、淳子が同日午後〇時一〇分死亡したことは当事者間に争いがない。
四 そこで、以下、請求原因4及び5の過失が認められるかどうかについて検討することとする。
1(一) 請求原因4(一)の事実のうち、淳子が、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから、被告病院において気管支喘息の発作の治療のため夜間の救急診療を受け、当直の医師からボスミン皮下注射を受けたこと、翌二九日午前中に再び被告病院に赴き、同日午前一〇時三〇分ころ行政医師の診察を受けたこと、行政医師が淳子に対し問診を実施した後、病名を気管支喘息の中発作と診断したこと、気管支発作の場合、患者の発作の程度は、小発作、中発作、大発作及び重積発作状態に分けられ、その程度に応じた治療を施さなければならないこと、行政医師が淳子に対しステロイド常用の有無について質問(以下「ステロイド問診」という。)をしなかったことは当事者間に争いがない。
(二) 鑑定人中島重徳の鑑定結果(以下、「中島鑑定」という。)によれば、次の事実が認められる。
(1) 昭和六一年当時、喘息患者の医療現場においては、ステロイドは、副作用が強調されていたため、現在のように常用されておらず、必要最小限度に用いるというのが臨床医の基本的考え方であって、殊に患者が若い女性である場合、催奇性の心配があるため投与に特に慎重であった。
(2) そのため、小発作や中発作の場合は、アロテック吸入、ボスミン皮下注射、ネオフィリン点滴などの方法を用い、それでも発作が軽減しない時に初めてステロイドを投与するというのが一般的な治療指針であった。
(3) しかし、発作の程度が強く、大発作と診断される場合や中程度以上の発作が二四時間以上持続している状態である重積発作状態のときには直ちにステロイドが投与されることがあり、また、患者がステロイドの常用者であるときも、それだけでは重症とは判断できないものの、常用量は持続投与すべきであるとされていた。
(三) 淳子の喘息の症状について、これを行政医師が中発作と診断したことは前記のとおりであるところ、淳子が喘息がすっきりしないので医院に行きたいと訴えたのが二八日午後一一時ころであること、被告病院で夜間救急診療を受けたのち翌二九日午前一時過ぎころ帰宅し、お粥を食したりしたが、息遣いは普通で、咳はなく、特に苦痛を訴えることもなかったこと、同日午前一〇時三〇分ころ行政医師の診察を受けるに際しても、独りで歩いて診察室に入室したこと、肩呼吸をしてやや苦しそうで、問診時の会話も少し困難であったが左程の支障はなかったこと、チアノーゼもなかったことなども前記のとおりであって、これらの状況に照らすと、発作の程度は客観的にも中発作であったと認められ、かつ、そのような発作状態が二四時間以上継続していたと認めることはできないから、重積発作状態であったということもできない(中島鑑定)。
(四) ところで、淳子は、大阪中央病院において大川内医師から昭和六〇年八月以降ステロイドの投与を受け、被告病院で右診療を受けた時点ではステロイド依存症に近い段階に至っていたのであるから、この事実を前提とすれば、行政医師が診察した時点で淳子に対し直ちにステロイドを投与するのが相当であったものといわなければならない。
しかし、行政医師は、淳子に対しステロイド問診をすることなく、右事実に気付かないまま、ステロイド常用者であることを前提としない通常の中発作の患者に対する治療指針にしたがってアロテック吸入の処置を指示し、直ちにステロイドを投与しなかったのであるから、この点において行政医師の診察、処置は当を得たものではなかったといわざるをえないかのようである。
(五) そこで、行政医師が淳子にステロイド問診をしなかったことが医師としての職務上の注意義務違反、すなわち過失にあたるというべきかどうかについて検討するに、この点に過失があると認めるためには、ステロイド問診をしておれば淳子の症状が急激に悪化して重大な事態となる危険を予見することが可能であったと認められ、かつ、この危険を回避することが可能であったとも認められることを要するものというべきところ、行政医師が診察した時点での淳子の症状は右(三)のとおりであり、直ちにステロイドを投与しなければ症状が急激に悪化して重大な事態となる危険があるとまで予見することは極めて困難な状況であったというべきである(中島鑑定)から、ステロイド問診をしておれば右のような危険を予見することが可能であったと認めることは困難であったといわざるをえない。
さらに淳子は、大阪中央病院の大川内医師からにステロイドを常用していることについて必ずしも明確な説明を受けていなかったのであるから、仮りに行政医師がステロイド問診をしていたとしても、直ちにステロイドを投与すべきであると判断するのに必要な回答が得られたかどうかは疑わしく、また、仮りにそのような回答が得られて直ちにステロイドとネオフィリンとの混合液を点滴していたとしても、ステロイドには即効性がなく、その効果が現われるまでには約二時間を要したものと認められるから、このような処置によって症状の急激な悪化を回避することは不可能であった(中島鑑定)というよりほかはない。
そうすると、結果の予見可能性及び回避可能性のいずれの点においても、行政医師がステロイド問診をしなかったことがその職業上の注意義務に違反し過失に当たるものということはできない。
2(一) 請求原因4(二)ないし(五)の事実のうち、行政医師が野村看護婦に対し本件吸入液の吸入処置の実施を指示したこと、本件吸入液にネブライザーD液五ミリリットルを追加したこと、吸入処置にあたり野村看護婦が淳子に腹式呼吸を指導したことは当事者間に争いがない。
(二) しかし、行政医師が直ちにステロイドを投与することなく、本件吸入液等を投与したことに過失があると認められないことは、右1において説示したところから明らかである。
(三) また、本件吸入液を皮下注射の方法によることなく吸入の方法によって投与したことが行政医師の職務上の注意義務に違反するものであったとの主張は、これを肯認すべき根拠を見出すことはできないし、皮下注射をしておれば淳子の症状の急激な悪化を回避し得たことを認めるに足りる証拠も存在しないから、この点において行政医師に過失があるものということはできない。
(四) アロテックにビソルボン、アルベール又は生理食塩水などを加えた吸入液を投与すべき注意義務があったことを肯認すべき事情も証拠も存在しないし、ネブライザーD液を混合した点に過失があったと認めることもできない。
(五) さらに、吸入装置を作動させるため本件吸入液にネブライザーD液五ミリリットルを追加したこと、吸入処置にあたり野村看護婦が淳子に腹式呼吸を指導したことが過失にあたるとの点も右と同様であって、これが予見可能性と結果回避可能性に基づく注意義務に違反し過失にあたるものと認めるべき根拠は存在しない。
3 請求原因4(六)の事実のうち、行政医師が本件吸入液の吸入中止後ネオフィリン及びソルコーテフを投与したことは当事者間に争いがないところ、昭和六一年当時、このような処置は医師の裁量権を逸脱した処置ではなかったことが認められる(中島鑑定)ので、この点において過失があるとは認められない。
4(一) 請求原因4(七)の事実のうち、淳子の症状の急激な悪化に備えて気管切開や気管内挿管を準備しなかったこと、淳子が呼吸困難に陥った時点で気道確保しなかったこと、呼吸が停止した後、全身麻酔をしなかったことは当事者間に争いがない。
(二) 淳子の症状の急激な悪化に備えて気管切開や気管内挿管を準備しなかった点は、中島鑑定によれば問診によって急死の可能性が予測される場合には直ちに気管内挿管や人工呼吸器などの救急処置が行えるよう準備しておくことが必要であると認められるけれども、前記1(五)に認定したとおり問診によって症状が急激に悪化して重大な事態となる危険があると予見することは極めて困難な状況であったのであるから、この点に過失があったということはできない。
(三) 中島鑑定によれば、吸入処置を中止した時点で直ちに気道確保を行うことによってあるいは救命されていた可能性があったと認められるけれども、他方、昭和六一年当時は、まずステロイド等の点滴を開始し、ついで、呼吸停止してから経鼻挿管(気道確保)して呼吸管理することが多く、行政医師がまず点滴を実施した処置が医師の裁量を逸脱したものとはいえないことも認められるから、淳子が呼吸困難に陥った時点で、気道確保しなかった点に過失があったということはできない。
(四) さらに、中島鑑定によれば、アンビューバックによる換気処置が困難となった状態にある場合でも、従量式人工呼吸器を用いた機械呼吸、気管支洗浄、全身麻酔による筋弛緩などの処置を行っておれば、淳子を救命し得た可能性がなくはなかったことが窺われないではないけれども、このような処置によっても必ず救命し得たというわけではないのであるから、この点において過失があったと認めることはできない。
5 請求原因5(一)の当直医にステロイドを投与すべき注意義務の違反があったとの点は、行政医師の処置について説示したところと同じ理由で、これを肯認することができない。
6 さらに、請求原因5(二)の病院長の過失について考えるに、淳子が二九日午前八時一〇分ころ被告病院に到着したこと、行政医師が診察を開始したのが午前一〇時三〇分過ぎころであったこと及びその経過は前記認定のとおりであるが、診察開始の時点前後の症状も前記認定のとおりであるから、診察開始までの二時間余の待機が、その後の急激な症状の悪化の原因であったものとは認めがたく、また、より早期に診察を開始しておれば死亡の結果を回避し得たものと認めることもできないし、行政医師に過失があったと認められないこと前記のとおりであるから、臨床経験と力量の乏しい行政医師に単独で診療に当たらせたということもできない。
7 そうすると、行政医師、野村看護婦、当直医、病院長ら被告の被用者らに注意義務の違反、過失があったものということはできないので、第一審被告に民法七一五条に基づく使用者責任を認めることはできず、また、履行の不完全を理由に債務不履行責任を負わせることもできないというべきである。
五 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、第一審原告らの請求はいずれも理由がなく、これを一部認容した原判決はその限度で不当である。
よって、第一審被告の控訴(第二七一三号事件)は理由があるから原判決中第一審被告敗訴部分を取り消したうえ、第一審原告らの請求を棄却することとし、第一審原告らの控訴(第二八〇六号事件)は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官藤原弘道 裁判官孕石孟則 裁判官田中恭介)